- 2009年7月8日(水)
- ヨシザキのつぶやき
ファシリテーター吉崎が楽しみにしているテレビ番組「爆笑問題のニッポンの教養(NHK総合毎週火曜11:00-11:30)」。File078は刑事訴訟法の権威で、裁判員制度を進める立場の一橋大学大学院法学研究科教授の後藤昭先生でした。「裁判員制度」についてまったく興味関心がない爆問の田中氏とのやり取りをベースにしながら、後藤先生は爆問の両人と終始笑顔を絶やさず対談されてました。
放送中に書き留めたファシリテーション・グラフィックをもとに、後藤昭先生の説かれる「日本の刑事訴訟裁判の現状」と「国民にとっての判員制度の意義」をリポートしたいと思います。
「疑わしきは罰する(有罪推定)」が基本の我が国の刑事訴訟
刑事裁判には「無罪推定」という原則があるそうです。「疑わしきは罰せず」というものですね。例えば、被告人がどんなに犯人らしくても、犯罪が立証できない限り無罪にしなければいけないという倫理なのだそうです。
「起訴された刑事訴訟の99.9%は有罪になります。しかし、死刑判決の少なくとも4件はえん罪でした。」という後藤先生の発言には正直驚きました。要するに日本の刑事訴訟は「無罪推定」の倫理からはずれ、「有罪推定」の状態に陥っているというのが後藤先生の見解と理解しました。
後藤先生はその原因を「専門家同士の馴れ合いが下地になっている」と表現されました。
専門家同士の馴れ合いとは、
- 基本的に密室で行う取り調べは何が起こっているのかわからない。そういった場で作成される調書は検察側が被告人からの事情聴取をもとにストーリーを再構成したもの(そこには事実とことなる恣意的な内容が盛り込まれる可能性がある)
- 裁判官は自分の法廷経験から事実をパターン化し、裁判の相場観(与件事項や被告の経歴、弁護人とのやり取り等を勘案した予定調和をつくる読みか?)を探る傾向がある
- 法廷とその関係する機関、関係者の間には「独特の常識」が存在し、一般の国民がチェックすることは不可能
ということだとファシリテーター吉崎は認識しました。
裁判員制度で「専門家の馴れ合い」解消をめざす!
後藤先生は、「無罪推定の倫理」から逸脱した状態を正常に戻す為には「素人のチカラ」が必要であると説きます。具体的には、一般の国民が「裁判員制度」により刑事訴訟に参加することで、「専門家の馴れ合い」や「独特の常識」が通用しなくなると言われました。
例としては
- 法曹界でしか使用しないような言葉を平易な言葉に改める、もしくは言い換える。
- 密室での取り調べに対する有効性の是非からビデオ撮影を順次すすめる(取り調べの可視化)
- 様々な価値観を持つ裁判員が、考え(意見)をぶつけ合うことで、事実認定がより厳格化される
国民にとっての裁判員制度とは何か?
後藤先生の日本の刑事訴訟に対する「現状認識」(有罪推定)と「あるべき姿」(無罪推定)を埋める解決策が「異なる価値観の導入と対話」であると考えます。
これは、ファシリテーター吉崎が唱える「会議の活性化」の流れとまったく一緒なのです。
- 特定の人の考え、価値観で決めていたことを、異なる価値観を持つ関係者が「参加と対話」を通じて解決策を見いだして行く
- その為には、「裁判員制度」にあたるような枠組みの工夫が必要である
- 特に大切なことは、現状(出発点)と目標(到達点)、そしてそのプロセスを可視化(見える化)することである
「他人の人生に対する決定的な判断を下すことが嫌だ。」という爆問の田中氏。後藤先生は「法律とは自分たちのルールである、そのルールを守り育てるのは国民の義務ではないか」と説き、「被告人にとっても、被害者にとっても人生の重大な場面に立ち会い、解決策を一緒に考えるという行動こそが、法律が自分たちのものになるのではないか」と説かれたと思います。
法律に対する傍観者から、法律を守り、運用する当事者になることが、本当の意味での民主主義のあるべき姿であると感じました。
ファシリテーター吉崎はこの番組を通じて「裁判員制度の意義」をようやく理解できました。
一生に一回あるかどうか?といわれる裁判員制度ですが、もしその機会が巡ってきたときには、真摯にその義務を果たそうと決意したしだいです。
皆さんは何を感じられたでしょうか?
17歳の少年が起こした殺人事件に関する陪審員の審議が始まった。誰が見ても彼の有罪は決定的であったが、一人の陪審員は無罪を主張。そして物語は思わぬ展開に!